オーストリアの首都・ウィーン
この街の印象は、外で歩いていると、ついクラッシクが口ずさんでしまうほど
それぐらい音楽が身近にある街です
ウィーンの街はカフェ巡りがおすすめです
(ウィーンのカフェ文化は2011年にユネスコ無形文化遺産に登録されました)
ウィーンのカフェの始まりは、
1683年オスマン帝国がウィーンを包囲したが敗退して、ウィーンの戦利品はオスマン帝国が置いていったコーヒー豆だったのだ。
その豆を使いウィーン初のカフェが開かれたと言われています
目次
カフェ・モーツァルト
モーツァルトとベートーベンが演奏したことのあるカフェ
ウィーン名物のザッハトルテがおすすめです
1788年に皇帝マリア・テレジアの料理人Franz Jahnがオープンし、
1929年再オープンしたのが、現在のカフェモーツァルトです
1888年に、モーツァルトがヘンデルのパストラーレ
1797年にはベートーベンがピアノと管楽のための五重奏曲を演奏
第3楽章から
代表作「第三の男」を書いた・イギリスの小説家、グレアム・グリーンがこのカフェによく訪れたそうです
映画「第三の男」では、カフェ・モーツァルトが登場しています
カフェ・デメル(ザッハトルテ)
シュタットパーク(市立公園)
ヨハン・シュトラウス2世の像
「美しき青きドナウ」「ウィーンの森」など多くのワルツを作曲しています
美しき青きドナウ
シューベルトの像
シューベルト 野ばら
シューベルトの子守歌
アヴェマリア
シュテファン大聖堂
ウィーンのゴシック様式の大聖堂
2001年に世界遺産に登録されました
13個の鐘があります。大聖堂で最も知名度の高い鐘はプンメリン(大鐘)で、高さ68.3mの北塔にあり、吊り下げられている鐘としてはヨーロッパ第二の大きさです
大聖堂の屋根には様々な色の瓦で、オーストリア・ハンガリー帝国の双頭の鷲、ウィーン市とオーストリアの紋章が描かれています
外観はゴシック様式、内部はバロック様式
モーツァルトの結婚式と葬儀も行われた大聖堂です
カタコンベにはウィーンの枢機卿や大司教の墓碑やハプスブルク家のお墓もあります
ペスト記念塔
ペスト記念柱はペスト終息を記念して建てられました
1679年にペストがヨーロッパに蔓延し、ウィーンでは約15万人の死者がいました。
ウィーン国立歌劇場
ウィーンのオペラハウス
世界三大歌劇場
ウィーン国立歌劇場
スカラ座(イタリア・ミラノ座)
メトロポリタン歌劇場(ニューヨーク)
の3つです。
カプツィーナー納骨堂
ハプスブルク家の人々が埋葬されています
女帝マリア・テレジアのお墓
流石に立派なお墓です
フランツ・ヨーゼフのお墓
妻エリザベート(シシィ)のお墓
ハンガリーを愛し、宮廷を嫌った人
自由を求め、旅行を好んだ
ブルグガルデン(王宮庭園)モーツァルトの像
ホーフブルク宮殿 (王宮)
ハプスブルク家の歴代皇帝が住んでいた宮殿です
1918年まで700余年にわたり、ハプスブルク皇帝は広大な帝国を統治してきました
旧王宮・シシィ博物館
皇后エリーザベトの愛称がシシィであることからシシィ博物館
ウィーン美術史博物館
ハプスブルク家が収集した名画があります
入って、正面中央階段上に
大理石彫刻「ケンタウロスと戦うゼウス」
ブリューゲル バベルの塔
ブリューゲル 雪中の狩人
フェルメール 絵画芸術
ジュゼッペ・アルチンボルド 火
フォルクスガルテン(国民庭園)エリザベートの像
ウィーン国家議事堂
像は女神パラス・アテネ 1902年に建立された
女神パラス・アテネは知恵と芸術を司る女神
頭に金色の兜をかぶり、右手には勝利の女神であるニケの像、左手に槍、
ブルグ劇場
女帝マリア・テレジアが、祝祭宴会ホールを劇場に変えることを1741年に命じたことに始まります
この宮廷劇場は1748年にブルグ劇場として開場しました
ウィーン市庁舎
ヴォティーフ教会
教会はネオゴシック様式
ウィーン大学の建築も手がけたとされるハインリヒ・フォン・フェルステルという建築家によって1879年に完成しました
トラム
レンタサイクル
シェーンブルン宮殿
17世紀末に夏の離宮として建てられたのが始まりで、18世紀、女帝マリア・テレジアによって現在の姿に改築されました
シェーンブルンとは「美しい泉」という意味
宮殿の名はこの地に湧き出す清らかな泉にちなんでいるそうです
1996年に世界遺産に登録されました
「マリア・テレジア・イエロー」と呼ばれる黄色い壁面で覆われていますが、財政の状況を考え、黄金に近い黄色にしたとも言われています
宮殿は外観はバロック様式、内部はロココ様式で1400室もの部屋があります
現在はそのうち絢爛豪華な大広間やホール、皇帝一家の暮らした部屋など約40室が公開されています
1762年6歳のモーツァルトが女帝マリア・テレジアの前で演奏をした「鏡の間」も見所です
中世のヨーロッパは、東半分はウィーンのハプスブルク家が西半分はパリのブルボン王朝が、富と文化の中心として君臨していました。
ブルボン王朝はフランス革命により終わりを告げましたが、ウィーンのハプスブルク家は第一次世界大戦まで東ヨーロッパの富と文化の中心として、また音楽の都の頂として長く繁栄していました。
当時、フランスの貴族文化の象徴であるヴェルサイユ宮殿はヨーロッパ中の憧れの的
フランス式庭園のあるヴェルサイユ宮殿を手本に、このシェーンブルン宮殿がつくられています
グロリエッテ
グロリエッテはフランスへ嫁いだマリー・アントワネットからの強い勧めでマリア・テレジアが建てたもので、1775年に完成しました
マリー・アントワネットはグロリエッテをことのほか愛し、忙しい公務の間にも屋上テラスでコーヒーを楽しんだといいます
(マリー・アントワネットは15歳までいました)
現在のグロリエッテは第二次大戦で爆破されたのち、再建されました
内部はカフェになっており、マリア・テレジア・コーヒーが飲めます
グロリエッテの上に96段の階段で上ることができます(有料)
グロリエッテの上に鷲の像があります
ラテン語で、「皇帝ヨーゼフ2世とマリアテレジアの治世の下で」という意味が記されています。
ネプチューンの泉
このネプチューンの泉はマリア・テレジアのもと庭園を改造する際、1780年に作られました
ネプチューンの右側には海の女神テティス(ネプチューンに自分の息子アキレウスがトロイアに向かう海の道のりを容易にするように頼んでいる)、左側にはニンフ(海の豊かさの象徴)
周りにはネプチューンを引っ張る4体のトリトンが馬と海を渡って行きます。
彫刻は白大理石に彫られています
パルメンハウス(温室)
1882年、皇帝フランツ・ヨーゼフの命によりフランツ・ゼーゲンシュミッドによる設計で建てられました。
ヨーロッパ大陸では最大規模のパルメンハウス(温室)で、45000枚のガラス板が使用されています
パルメンとはドイツ語で手のひらを意味し、ヤシの木を指し
高さ約23mのヤシの木があります
日本庭園
フランツ・フェルディナント大公が日本訪問から帰国後、庭師に見よう見まねで作らせたものです
1892年に出発した軍艦エリザベート皇后号による世界一周の見聞旅行の途上で、1893年(明治26年)に香港を経て日本を訪れ1か月をかけて、長崎から東京まで旅しています
リス
ベルヴェデーレ宮殿
レオボルト1世〜カール6世まで3人の皇帝に仕えた総司令官であったサヴォイ家のオイゲン公が建てた宮殿
クリムトの24点におよぶ作品の中で特に有名な「接吻」や「ユーディット」があります
マヨリカハウス&メダイヨン・マンション
マヨリカハウスはオットー・ヴァーグナーが手がけた1899年築の集合住宅
マヨリカ焼きのタイルを使用されている
オットー・ヴァーグナーはウィーンの都市計画に携わり、設計した建築物は60ほど
分離派会館(セセッション)
建築家ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒの設計により、1897/1898年に建設されました
月桂樹の葉による球形(通称「金のキャベツ」)
クリムトの「ベートーヴェン・フリース」が常設展示されています
1897年クリムトは他の芸術家たちとともに保守的な美術家協会を脱退、セセッシオン(分離派)の名前で新たな芸術家団体を結成しました