アドリア海沿いの街や自然に触れるクロアチア

まだ世界中で民泊が流行る前から、民泊があります

クロアチア人の心温かい方ばかりに会えます

赤レンガの街ドゥブロヴニク

クロアチアでよく見られる所は、赤れんがの街ドゥブロヴニクです

ドゥブロヴニクのオススメはスルジ山から見える絶景です

ドゥブロヴニク市街とアドリア海が見れます

「アドリア海の真珠」と呼ばれる美しさは、映画やアニメのモデルにもなっていて

ジブリ作品の「紅の豚」の街のモデルとなったともいわれている場所です

1979年に世界文化遺産として登録されています

要塞都市。13世紀ごろから地中海交易の拠点として繁栄しました

ドゥブロヴニクは1667年4月6日にはでマグニチュード7.4の地震が発生しました。その後津波があり死者は約3千人

大きな被害を受けたにも関わらず、教会、修道院、噴水などがよく保存されています

 一周約2キロで、2時間ほどで一周できる城壁巡りができます

アドリア海

アドリア海はクロアチア・ギリシャ・イタリアに囲まれています

アドリア海でシーフードが採れます

アンコウ、タコ、手長エビ、イカ、ウニなど

ドゥブロヴニク手前の小さな街ストンでは、カキの養殖が非常に盛んです

シーフードレストランで、注文できます。とても美味しいです

ピレ門

西門のドゥブロヴニクの守護聖人「聖ヴラホ」像があります

オノフリオの大噴水

オノフリオの大噴水は1438年に

イタリアの建築家、オノフリオ・ジョルダーノ・デラ・カヴァによって造られたもの

12km離れたリエカ・ドゥブロヴァチュカの源泉から水を引かれました

オノフリオの「噴水」は、正しくは噴水というよりは公共の水飲み場です

1667年の大地震で装飾は多く失われています

クロアチア独立戦争後、

水道管に変更されていますので、現在流れているのは水道水です

フランシスコ会修道院・プラツァ通り

フランシスコ修道院の建設は1317年に始められ、何年もかかりました

オリジナルの建物は1667年の大地震で崩落しており、現在の建物のほとんどは震災後に再建されたものです

1991~92年の内戦でも甚大な被害を受けて、10年の歳月をかけて修復もされています

フランシスコ修道会はイタリアのアッシジが総本山で、創立者のフランチェスコは第2のキリストと呼ばれています

プラツァ通りは街のメインストリート

ブランド店やカフェ・お土産屋があります

聖ヴラホ教会

ヴェネチアの建築家、マリノ・グロペリが1706年から建設を始めて建てたもので。1715年に完成したものです。ヴェネチアンバロック様式の装飾です

14世紀にロマネスク様式で建てられた古い教会は、大地震で損傷を受け、1706年には、大火災で全焼してしまいました

聖ヴラホの銀の像だけが残ったのです。銀や他の像は全て火に溶けてしまいましたが、この聖人の像だけは奇跡に守られて、損傷も受けずに、火事の教会から救い出されました。

まさに奇跡です

聖ヴラホは、10世紀からドゥブロヴニクで崇められている、この町の守護聖人です

聖母被昇天大聖堂

1192年にイギリスのリチャード王が創建したと伝えられています。
1667年の大地震で損壊し、1713年に再建され、現在のバロック様式の建物になりました。
大理石で造られた祭壇の奥にある、イタリア・ルネッサンスの有名画家ティツィアーノによって描かれた『聖母被昇天』が有名です

中世時代の繁栄を伝えるたくさんの金銀財宝や、守護聖人である「聖ヴラホ」の聖遺物などが保管されています。

綺麗な澄んだ水のプリトヴィッツェ湖群国立公園

1979年世界遺産の自然遺産に登録されました

国立公園で、標高639mのプロシュチャンスコ湖から約135m下に位置する湖まで、16の湖と92の滝があります

総面積約192㎢


この湖群は、1億3500万年~6600万年前に造られたカルスト地層で石灰華(石灰質堆積物:藻類やコケ、バクテリアなどの堆積物)の働きで川に自然のダムが造られたことで生まれました。

ミネラルや有機物の含有濃度、日光の角度などによってエメラルドグリーンやコバルトブルーに見えて、大変綺麗です

1991年クロアチア紛争により危機遺産に登録されましたが、地雷除去を進めたことで1997年に危機遺産リストから除外されました

今ではクロアチアの観光名所のハイキングコースとなっております

公園内移動(電動バス

公園内禁止事項の看板

2つの湖群があります

時間によってまわられてください

全部をまわろうとすると、一日コースです

よくまわられているのは、下湖群です

コジャク湖遊覧(電動ボート)

水が透明なので、マスが浮かびあがってるように見えます

ザグレブ(クロアチアの首都)

クロアチアの首都

聖マルコ教会

紋章の意味

屋根にはふたつの大きな紋章がタイルで描かれています 

向かって左がクロアチア王国、ダルマチア地方、スラヴォニア地方を表す紋章:青い部分はヒョウです

右側はザグレブの紋章:19世紀からザグレブ市の紋章の背景には青色が採用されていますが、18世紀には赤色がよく使用されていました(聖マルコ教会の紋章の背景が赤色なのはその名残です) 

スラヴォニア地方”の紋章の黒いのは動物の「テン」です。

テンはクロアチア語で「クーナ」クロアチア通貨のクーナです

昔クロアチアの一部(パンノニア)では「税金」としてお金ではなく毛皮が納められたという習慣があり、それが元となり通貨単位が「クーナ」になったそうです

建築様式

教会は13世紀中頃に建設され、現在でもロマネスク様式の太い柱が見られます

14世紀には礼拝堂とアーチがゴシック様式で建設され、

19世紀末にヘルマン・ボレーによってネオ・ゴシック様式により修復されたもの。この美しい屋根瓦もその時に併せて作られました。

聖マルコ広場(国会議事堂や首相官邸など国の重要機関が集まる)面していることから、クロアチアの国葬などの重要な行事はここでで行われています。

イタリアのベネチアも聖マルコ

イタリアのベネチアでも、聖マルコが守護聖人になっています

9世紀にアレクサンドリアにあった聖マルコの聖遺物をベネチアに持ち帰りました

当時アレキサンドリアはイスラム圏だったため、彼らの目をごまかすために聖マルコの遺体はイスラム圏が嫌う豚肉の中に隠されて運び出されたといいます)

聖マルコ

マルコ福音書を書いた著者

マルコの育った家庭はエルサレムにあり、この家に使徒たちが親しく出入りしていた家であり、人々が集会する場・教会になったと言われています。

その後も、マルコはペトロについて宣教し、ペトロの説教の通訳をしたと伝えられています。

マルコはアレキサンドリアで司教として信徒の世話をしていたが、74年ごろ殉教したと言われています

聖母被昇天大聖堂 

ザグレブのシンボル聖母被昇天大聖堂。空にそびえる二つの鐘楼は、町のどこからでも見つけられてよい目印になります(尖塔の高さは105m)

ザグレブに初めて教区が設立されたのは1094年のこと。そのあとすぐに大聖堂の建設が始まりました

13世紀にゴシック様式の大聖堂の建築が進められ、

その後15世紀中頃にようやく大聖堂の修復・建設が再開されましたが、17世紀に工事が終わった頃、ゴシック様式ではなくバロック様式を主とした大聖堂へと姿を変えていました

1880年の大火災で大きな被害を受け、現在の姿へとなりました

大聖堂の一番奥、正面の祭壇にあるのはキリストの像でも絵でもなく、石棺にザグレブの大司教であったアロイジエ・ステピナッツが安置されています

16世紀初頭にはヨーロッパを恐怖に陥れたオスマン・トルコ帝国の侵攻から街を守るためにザグレブ大聖堂の周りにはルネッサンス様式の城壁が建設されました。

現在、城壁は取り壊されそのほとんどが姿を消してしまいましたが、今でも大聖堂を正面に見て左側に城壁の一部が残されたままになっています

ザグレブ中央駅

ザグレブから港町のスプリトの路線

スロベニア、ハンガリー、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアの路線がある

アートパビリオン・トミスラヴ王の像

トミスラヴ広場にトミスラヴ王の像とアートパビリオンがあります(ザグレブ中央駅すぐ)

アートパビリオン

アートパビリオンは19世紀後半に建てられました。

建築はアールヌーボー様式

1896 年にブダペストで 行われたミレニウム展覧会にク ロアチアのパビリオンが出展しました

その後、ブタペストで解体され、列車でザグレブに運ばれて、再び組み立てられました

アーティストの展示場として利用されています

トミスラヴ王の像

クロアチア王国の初代王(925〜928年王在位)

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と同盟を締結し、ブルガリアやハンガリーから国を守った英雄

銅像が建てられたのは 1947 年のこと。巨大な柱の上に佇む馬に乗った王の姿からは、威厳が漂います

綺麗な港町のスプリト

クロアチア第2の都市であるスプリト

この街にたどり着くまで、あまり観光地としてゆっくりまわろうと思ってなかったんですが、

来てみて、びっくり!! 良い所過ぎてゆっくり過ごしたいなと思わせた街です

1979年ユネスコ世界遺産に登録されました

ローマ時代の古代都市として世界遺産にも登録されている歴史ある建物が、数多くあります

ディオグレティアヌス宮殿


ローマ皇帝ディオクレティアヌス帝は自分が余生を暮らす場所として295年から巨大宮廷の建設をはじめました。

しかし、ディオグレティアヌスは6年間過ごしただけで亡くなられました

その後はローマ帝国も衰退し廃墟と化してしまいました。ところが7世紀になるとその廃墟に人々が住みはじめ街として発展。世界的にも珍しい歴史を持つ遺跡なのです

ディオクレティアヌス帝はダルマティア(クロアチア)サロマで生まれました。

284~305年にかけて在位したローマ帝国の皇帝で、軍人皇帝時代を終わらせ、キリスト教の最後の大迫害を行ったことで有名な人物です

また、彼の両親が元老院議員アヌリアス家に仕えた奴隷でしたが軍人として頭角を現し、

ローマ帝国を4つに分割して、自らは現在のエジプト・トルコ一帯を統治しました

静かな漁村であったスプリトで家庭菜園などをしながら余生を送りました。

彼は死後宮殿内の霊廟に埋葬されました。

313年にミラノ勅令により、キリスト教は公認され、8世紀には霊廟が大聖堂に造り変えられました。

皮肉なことに彼はキリスト教の迫害を行ったことにより、大聖堂から遺体が撤去されアドリア海に投棄されたと伝わっています。

大聖堂の鐘楼

クロアチアにいるかわいい猫達

犬・猫の総合情報サイト『PEPPY(ペピイ)』

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